【第141号】「傘がない」という幸福
山田玲司のヤングサンデー 第141号 2017/6/26
「傘がない」という幸福
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僕は頭が混乱すると「死者」やら「精霊」に会いたくなる。
ここの所、絵本の発売やら、公式放送やら、イベントやら、色々ありすぎて、少々混乱してきたので、
「ちょっと鎌倉にでも行こうかな」なんて、鎌倉に行って来たんですがね。
「昼前に北鎌倉に降りて、南に向かって「好きなお寺」だの「地元の料理」だのを味わいつつ、海にでも行こうかな」なんて呑気に考えていたんですが、どうも天気の機嫌が良くない。
手ぶらの散策が好きな僕は、傘なんか持って来てない。
「まあ、その時はその時だ」なんて思っていたら、北鎌倉の円覚寺でいきなりの大雨。
その時僕は、巨大な如来の鎮座する本堂にいたものだから良かったんだけど、とにかく凄まじい雨なので本堂から出るに出られなくなってしまった。
「まあ、これも何かの縁」とばかりに、僕はそのお堂で本格的な雨宿りをすることに決めた。
すると、時が経つにつれて多くの事に気づき始めた。
円覚寺の本堂は中央に大きな如来像、右手に大きな屏風があって、そこには「仏心」と書いてある。
そのお堂にある「文字」はそれだけだ。
そのお堂からの「わかりやすいメッセージ(お答え)」は、それだけなのだ。
「こんな大雨の時にどんな気持ちで過ごせばいいんでしょう?」なんていう僕の問いにも、よくある「モテたいんですけど、どうしたらいいんでしょう?」みたいな問いにも、「旦那の義母とケンカばかりで嫌になるんですけど、どうしたら?」みたいな問いにも、答えはすべて1つ。
「仏心」なのだ。
さすが禅寺。これ以上ない回答だ。
ここで僕は「仏」の「心」とは何か考える。(何しろ時間はいっぱいあるのだ)
仏(ぶつ)はサンスクリット語の「ブッタ」からきていて、その意味は「目覚めたもの」と言われている。
仏教の開祖「仏陀釈迦牟尼」とは「目覚めたお釈迦様」という意味らしい。
つまり「仏心」とは「目覚めた心」という意味なのだ。
仏教では、僕ら「普通の人」は「欲」や「人の眼」や「植え込まれた思い込み」のために「目が開いていない状態」だというのです。
禅の開祖「達磨」を「だるまさん」という「赤い工芸品」にして、願いが叶った時に「目を書き入れる」風習があるのは、そういう意味なのです。
その先は長くなるので(放送で話したサンゴと草木は同じ、みたいな話です)今回はここまでとしますけど、まあ色々深い話です。
如来の左には、菩提達磨の像と円覚寺を作った時に中国から呼ばれた名僧の像がある。
禅に深く傾倒していた時宗が招いた中国の名僧の名は「無学祖元」
名前に「無学」と入れているだけで「恐ろしいインテリ」だと感じる。
学問の道中では「知らない」と言える人ほど頭がいいのだ。
大雨で閉じ込められている「傘のない」哀れな僕の前を、傘を持った準備のいい人達が次々とお参りしては帰っていく。
彼らは「今日は好きにしていいぞ」と、如来に言われてるのかもしれない。
時々、参拝者が途絶えて、本堂には僕と僕と同じような「帰らない人」の数人だけになる。
天井には墨で描かれた巨大な龍が僕らを見ている。
よくよく見ていると笑っている様にも見える。
龍は雨を司っている。僕のために雨を降らせてくれたのだ。
「傘がない」ってのはいい。
野暮な事を言うと、「傘がない」ってのは、「車がない」とか「お金がない」とか「恋人がいない」とかと同じことだ。
「腰が痛い」なんかもそうだろう。
そういう「不自由」が「目を覚ましてくれることがある」ってのがいい。
円覚寺はそもそも、モンゴル帝国(元)が世界大侵略を仕掛けていた時代に、日本を侵略から守って死んだ人たちの霊を慰めるために建立されたお寺だ。
過酷なその「蒙古襲来」を戦った人たちは、雨で海に行けなくなった僕を笑っていただろう。
「いいから紫陽花でも見ていきなよ」と言ってくれたのかもしれない。
なにしろそこで見た「雨を浴びた紫陽花」は最高に美しかったんでね。
山田玲司
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平野建太
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ナオキ
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