コラム 2019.11.03

山田玲司のヤングサンデー【第213号】

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おことわり:このコラムは、ニコニコチャンネル「山田玲司のヤングサンデー」で配信されているメルマガを全文転載してお送りしています。転載期日が2018年4月下旬以降の号は、テキストのみを抜粋・転載しております。

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ペレチャ・スティグ、デュラゴラッサ、ニベモーンデサ・ポキネフル、フタフッタ・フベ

(皆さんご機嫌に過ごしてらっしゃいますでしょうか?ヌッヘル語でここ、東京、杉並区から話しかけています)

べべ・ガガトト・パージ、ノッテーィテッサ

(分かりにくいのでもうやめます)

どうも。久世です。しょっぱなから謎なことしてごめんなさい。

今日は大げさにいうと今年僕の世界が変わった瞬間について言語化してみます。普段使わない場所というかなんというか、新しいスポーツ始めた次の日とかに、普段意識したことない筋肉に刺激があるような「えええここ使ってたんだ」みたいな感覚になっていただけたら幸いです。

お題は4つ。長くなったので気になるところだけでも読んでください。

・草津温泉の音楽性

・絵を「見る」という体験について

・言葉の関節

・ヤンサンフェスについて

・草津温泉の音楽性

この前草津温泉に生まれてはじめて行ってきました。

友達の温泉バディスタと一緒に。

彼はもう草津だけで50回以上行っているというツワモノです。後、行った温泉全部飲んでる。

バンドでベースをやっている彼は、温泉を音楽で例えます。今回は「草津で一番POPなお湯と、ハードコアなお湯に案内する」というもので、温泉に音楽という概念を取り入れたことのない僕は誘われた瞬間「行く」と言いました。彼と、僕、そしていつも僕の作品の音楽をやってくれている男性の3人で草津へ。

まず、一番POPなお湯は地蔵の湯というところ。確かにPOPでした。きゃりーぱみゅぱみゅのような、Perfumeのようなピコピコした気持ちよさが肌に付きまとい、優しく楽しく体を癒してくれました。誰かを試したりしない、すぅっと心地よさだけが流れていく音楽。

「いやぁ、これほどPOPな湯はほかにありませんよ。ミスチルで言うと、深海だね」「そうだね」なんてことを言いながら、お湯に入り「ちょっとユーミンな部分もあるよね?この一回お湯から上がった時の、身体に残る感じがさ」「荒井由実の時代だよね?」、「分かる。あとはカーディガンズなんだよな。」「Pモデルとかヒカシューじゃないんだよね、YMOだよな」「ちょっとちょっと、ウィーザー出てきちゃったけど、今この辺」とか好き勝手言って、最終的にこれは「尾崎紀世彦」だということに落ち着きました。お納めください。

そして、次は一番ハードコアな湯、白旗の湯です。このお湯は入るものを試すお湯です。自分のことを強く信じることができないと入れません。二つ湯舟があり、低い方でも体感43度くらい、高い方は47度くらいあったと思います。

高い方に入ったとき、僕の頭の中ではずっとジョンフルシアンテのforever awayが流れていました。ベースの彼に教わった、身体を湯船につけてとにかくすぐに広げ、手をお湯の外に出すという方法で入りました。そうしないと入ってられないのです。ほかの二人もそれぞれ、友川カズキが聞こえたり、細野晴臣が聞こえたり、パンテラが聞こえたり、とにかく大変なお湯でした。

人生で初の草津温泉、音楽としてのお湯体験。草津温泉の音楽性について、少しでも伝われば幸いです。いやぁ、温泉って本当にいいものですね。というお話でした。

・絵を見るという体験について

先月、美術館で展示されてる絵と踊る、絵の登場人物と共演するという作品を演出しました。そのパフォーマンスのリハーサル中強く思ったのが「絵がしあわせそうだな」ってことです。見られることって幸せです。見られるためのものを創ったのであれば。

絵はもう何千年も自分からは語らずに黙ってるけど、絵だって見られると、話しかけられると、喜んでる気がする。今回の作品はうまくいくと、いつもは私たちに見られてばかりいる「絵」の「自画像」を「人間が描いている」ように見えました。

人間が描く絵の自画像。という感覚がとても面白かったです。絵画の起源は影だそうですね。プリニウスによると。偶然ですが、その作品は絵の起源、光と影をテーマに絵を見ることを探るようなものになりました。

絵を踊る、人が踊る、影と踊る。

影が踊る、絵と踊る、人と踊る。

人と踊る、影を踊る、絵が踊る。

絵をみているとき、人間の身体に一体何が起こっているのでしょうか?

最初に絵を見たときの感動。もしくは大好きな絵に出会ったとき、出会って「しまった」ときの体の不確かさ、心の消滅、明滅の仕方。絵を見るってなんだろう?絵と対峙する全ての起点は見ること。見ることは、対象との距離を測ることでもあります。

例えばこの絵は自分のことなのか、それとも全く違うことなのか。絵って、見て、心が動いたりするけど、こんな感覚始めて!ってなったりすることもあるけど、その絵をみて心が初めて動いたと思った場所は最初から自分の内側にきちんとある気がします。まだ出会ってない絵でも、その絵のための場所は最初から自分の内側にある。見てからその心の場所がつくられたのではなく「最初からあった」って感覚なんです。

みなさん洞窟壁画は好きですか?ラスコー洞窟、アルタミラ洞窟とか。僕は好きです。

抽象的な表現だけど、絵を見ることって「マックラな大きな洞窟の中を自分の目という光だけを手に歩く行為」でもあると思うんです。そして、絵「ごと」に、自分の内側に「その絵のためだけの洞窟」があるような気がします。

自分の目、思考、視点という、ロウソクやランタンの灯りのような「不確かなもの」で照らし出される「確かな世界のカタチ」が絵にはあって、それを通して、自分の心の中にこんなに巨大な穴がいくつもあいてたんだ、みたいなことを僕は感じます。

もちろん、全部の絵にアクセス出来るわけじゃ無いけど、アクセスして深くなにかを感じた絵、これから感じる絵の数だけは全て、自分の内側に洞窟があると思いました。心ってどんだけ広いんだ!まだ入ってない洞窟だらけだ!

地図も何も渡されていない洞窟の中を、目だけを頼りに歩いていくといきなり大きな絵が現れる。それは、とてつもなく呪術的なもので、根源的なもので、絵をみたことがない人は絵を見るってことだけで圧倒されてしまうんじゃないかな。その洞窟も「洞窟に行こう」と思っていくんじゃなくて、霧に包まれるときみたいにいつの間にか洞窟の中にいて、急にその中を歩かないといけなくなるんだよなぁ。

絵を見るって、洞窟の中に住む龍に出会った!みたいな感じが一番自分の中で近いです。

洞窟の中を照らして不安なまま歩いていると、ふと、大きな、龍としか言えないわけのわからないものがいた。優しいか優しくないかまだわからない。分かり合えるか分からない。分かり合えるとかじゃないかもしれない。

龍が住んでいる、なにかの息遣いのある洞窟。もし、絵をみたとき「言葉」をしらなかったら絵のことを言葉にして整理して逃げてしまうこともできない。ずっとぐるぐるぐるぐるムネの中で何かが渦巻く。大きな何かわからない総体の見えない何か。それって僕のイメージだと龍に近いんです。絵をみることとは龍に出会うことでした。

1つの絵に出合うために1つの洞窟にいく。自分の目というランタンを持って。そこはどんな洞窟なのか。絵のための場所は最初から自分の内側にあって。鑑賞が終わっても。コチラが閉じない限り、その洞窟は閉じない。

絵を見るときって人は一体なにをしてるんだろう。人に何が起こっているんだろう。

まだまだ探りたい。いろんな角度で探したい。絵を見るって面白いなぁ。絵を見ることって面白いなぁ!!っていうお話でした。みんなどんなこと感じてるのかな?知りたい。

絵を見るときに身体と心に起ってること、教えてください。

・言葉の関節について

僕の中で、詩を描くとき絶対にしてはいけないことがあって、それは「説明すること」です。説明をしたら僕の中で詩にならない。物語やエッセイになってしまう。何故これが詩なのかは後から考える。もしくは普段考えているので、描くときは何も考えないのが今のところの正解です。

さらっと描けることもあれば、苦労して言葉を選ぶこともあって。苦労して選ぶときでも、感覚的にどの言葉が適切かはなんとなく見えています。ただ、自分の知ってる言葉の量が少ない、またはその言葉とのアクセスが切れているからそこに言葉が置けないだけ。描こうと思った時には描くべきことは決まっているのが自分の中の詩です。

出てこない適切な言葉も『「夜桜」に近い言葉』なんだよなぁ。というようなひっかかりじゃなくて「黄色い言葉が足りない」だったり「ここにざらざらした言葉を足すと前の言葉とあとの言葉の色が変わるんだよな」とか。そういう感覚的なものを詩を描くときの身体は求めてきます。

そこに「何故」を入れない。何故言葉の色を変える必要があるか、ざらざらした言葉が必要かは考えず、描いているときは身体の欲求に従う。言語化してしまうとせっかく繋がっていた自分以外のものとのリンクが断絶して自分のものになってしまう感じがしてダメなんです。自分のものにせず、自分を手放すことを詩を描くうえで大事にしています。

言葉に出来ないことを言葉でやろうとする試みが詩でもあるので、言語化しないままの感情を抱えて、論理的構造物である言葉を論理的に使わずに置いていくことで言葉をいきいきと、絵のように音楽のように存在させることになると思っています。自分に認識できてない、自分が生きていて分かったことを自分が教えてくれるのが僕にとって詩です。

そして、言葉は前後の文章によって意味が変わるので。そのとき必要だった「黄色い言葉」は「列車」だったり「ざらざらした言葉」は「ふんわり」だったりします。謎ですね。

今年の1月から、踊りを始めました。このダンスはコンテンポラリーダンスというもので、バレェでも、日本舞踊でもなく、ヒップホップでも、ジャズダンスでもない。ジャンル分けできない「一人一ジャンル」あるような踊りです。

僕が習っているのはこないだのヤンサンにゲストで出演していた熊谷拓明さんの踊りなのですが、この踊りを習いだしたことで、自分の「言葉の景色」、「詩作」が大きく変わりました。

1月に踊り始めたとき、熊谷氏から「この1か月は身体を一番大きく延ばして、一番小さく縮めるということをやってみろ」と言われました。最初は「ああ僕の身体ってなんでこんなに思うように動かないんだ」ってところばかりが気になっていましたが、その行為に慣れてくると「こことここは繋がってたんだ!」という目から鱗的な大発見の連続でした。それは言い換えると「こんなところにも関節ってあったんだ!」でした。だからこういう動きになるんだということ。

自分が普段意識できなかった関節をまがいなりにも意識できるようになることで「ここはこう曲がる」、「ここを曲げたいときは、ここを先に曲げないと曲がらない」というようなことが、身体がなぜ動くか動かないかが頭と身体両方で理解できるようになったんです。

例えば、右手を横に一番遠くに伸ばしたければ地面と水平に肩の位置まで手を上げて、腰と肩と胸の関節をその方向につかって、さらに、首の関節を右に向ければ遠くに伸びるというようなことです。そして、そのまま首を回す意識を続けると左足が動いて回る「しかなくなる」。それが続くと踊りになるような気がします。

踊る前、50個ほどしか関節を認識できてなかったとしたら、今意識できるのが150個に増えて、おまけに無限に関節があるような感覚になっていて「こことここの間にも何かの関節があるんじゃないか、だからこことこことがつながっているんじゃないか、繋げられるんじゃないか」というような希望や疑いを持てるようになりました。「認識できない」ところから「ある」ということを知り「今認識できないけど、無いわけじゃないんじゃないか」というところに居るということは自分の中では大きな変化です。そういう身体の感覚になったときに、詩作も変わってきました。詩作に「関節」、それも「言葉の関節」というイメージが入ってきたのです。

今まで僕は言葉を有機的なものと認識していて、その詩に使われている全部の言葉を組み合わせて「一つの言葉」、「一つの絵」を創り上げるイメージを持っていました。キャンパスに色を置いていくイメージが強くありました。言葉の関節のイメージを持ったことによって、僕がやっていた詩作はそのとき感じたことを一つの生き物だという風に認識して、その生き物の構造を時にラフに時に精密に描いていたんだと思ったんです。

自分が描こうと思っていたもの、何故その言葉とその言葉を繋げたのか、繋げた言葉と繋げた言葉が何故繋がったと思ったのか、それは自分が見えている世界や感情を生き物として捉え、そのときのその生き物の一番印象に残るポーズの関節を捉えて「一つの身体」を描いているからでした。全部じゃないけどそのパターンが多くある。それだけと決めつけるのはよくないけど、そういう側面もあるということを認識できたのはとてもよかった。

言葉にも関節があるという感覚が身体でも理解できるようになって、今まで意識できなかったイメージで詩が見えてきました。

aという言葉があって、次にcという言葉を置いているけど、どう考えても、bという言葉がないと「身体」として成立してないぞ、みたいなイメージです。最近途中の詩を見て「この子まだ歩けない!」とか良く思います。

この詩は、50個の単語で出来ているけれども、構成要素的には描かれていない100個の単語がある。合計でおそらく150個の単語で構成出来る詩だけれど、全部を描くとただの説明になってしまうから、3つ目の関節(単語)と45個目、150個目の関節だけで表して、その3つを中心にそれが繋がっていることが分かる関節を選んでその周りに骨と肉と色と匂いが着くような言葉を置いて描いていけばいい。というような感覚で描くようになりました。なるべく説明を排除して。

今にも落ちそうな危ういバランスを取っているものって見つけたら、人は見てしまうと思うんです。身体でもすごいバランスで立っている人、回っている人はみてしまう。

それと詩も同じで、絶妙なバランスを取りたい。なので、必要最低限の言葉の関節だけ抜いて描いてみて、全体像が見えればいいなと思って、この描き方にぞくぞくしています。

身体が変われば言葉も変わる、言葉が変われば身体も変わる。そして、言葉の関節を前より具体的に意識できるようになったことで、関節を無視できるようにもなり、繋がってなさそうな二つの言葉の間に関節があると仮定したら、どうつながるか、言葉を選ぶときに構造的に想像できるようにもなり置ける言葉の幅がぐんと広がってすごく楽しい。

僕はいつも、言葉の身体性というもの、逆に、身体の言語性というものを意識して描いています。新しいことを何かなんでも始めると自分のそれまでとつながってそれまでと今とこれからとがうまく交差して自分のことをたくさん発見できて退屈しないぜいぇい!というお話でした。

・ヤンサンフェス

さっきまで絵は龍だ!言葉の関節だなんだかんだ!って言ってひとしきり興奮していましたが、ヤンサンフェスは打ちのめされました。放送でもいいましたが、ギターの音一発、ドラムの音一発で、関節もくそも一つの生き物の全て、僕が言葉でほんの一部しかとらえられなかったものの全てが目の前に現れるからです。しかもポーズをとっている状態ではなく、生きている状態で目の前に現れる。

どこかでも書いてますが、僕の好きな言葉に「言葉で説明できなくなってから始めて音楽になる」というものがあります。ドビュッシーか誰かの言葉。とにかく言葉で説明できることまでは言葉で説明しなきゃいけないし、そして、それが出来なくなったものがはじめて音楽なのだというような意味なのですが。一瞬です。もう僕には最初から音楽は言葉で説明できません。もちろんやっている方はそれぞれ何かしらの思考で言語化してると思うんです、そういう人間が集まって、ステージに立つともう、一瞬で始まった瞬間から終わりまで徹底的に音楽でした。

それは全部僕が言葉でやりたいもので、悔しくてうれしくて仕方なかった。言葉でもあれに近いことができるようになりたいなぁ。いい嫉妬が出来ました。

いい嫉妬はいい動機を産み、それはいい作品を生むんじゃないかというお話でした。

今後の久世の作品にご期待ください。

写真は、草津温泉、そして俺も玲司さんみたいに絵をUPしようと思って描いた自画像と、ペリカンです。自分の絵を見てやべぇ。こいつと知りあいたくねぇと思いました。お納めください。

公式サイト:漫画家 山田玲司 公式サイト
Twitter:@yamadareiji
ファンサロン:GOLD PANTHERS
Facebookページ:@YamadaReijiOfficial
番組観覧応募ページ:Coubic 山田玲司のヤングサンデー

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企画編集:久世孝臣
     平野建太

発  行:合同会社Tetragon
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