【第163号】「自分」とは何か?
「自分」とは何か?
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
おことわり:このコラムは、ニコニコチャンネル「山田玲司のヤングサンデー」で配信されているメルマガを全文転載してお送りしています。転載期日が2018年4月下旬以降の号は、テキストのみを抜粋・転載しております。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
何よりも「自慢」は嫌われるのに、人は自慢をしたくなる。
少し前に、松本人志がラジオで「宮迫は嫌いやねん」と、話していたのを聞いた。
宮迫の何が嫌いかと言うと、なんだかんだ言って最後は必ず「自分の自慢話」をしたがるからだと言うのだ。
関係ない話を巧妙に繋げつつ、最後には必ず「俺ってすごいんですわ」という話で終わるらしい。
彼はいつも「もっと自分を誉めてくれ」と言っているから、それがうっとうしいのだと松本は言っている。
なんともありがちな話だけど、この話。宮迫の気持ちもわからなくはない。
どこか自分に自信がなくて、不安を抱えているから「お前はすごいで」と、尊敬する先輩に言ってもらいたいのだと思う。
反対に「大先輩」が後輩に「俺ってすごいんやで」と言っているケースも多く見られる。
後輩からすると、そんな時間は苦行でしかないのだけれど、この「大先輩」もまた「自分」の社会的評価に不安を感じていたりするのだと思う。
一方で、細野晴臣さんのトークを聞いていると、そういう「自分はすごいんだ」という話はまずもって出てこない。
すごい事をして来たことすら「どうでもいい」か「忘れちゃったんだよ」みたいに言っている。
細野さんのラジオでは何回も、ゲストの人が「細野さんそれすごいことなんですよ!」なんて逆に言っている。
こういう人には本当に憧れる。
僕はどちらかと言えば、かつては「宮迫側」の人間だったと思う。
「自分」を世間に認めて欲しいし、やたらに自信はあるのだけど、その反面とにかく不安だった。
「自分はすごいんだ」と、自分で言うのはかっこ悪いので、意識して避けるようにしてきたつもりだけど、そんなもの周囲にはバレていたに決まっている。
まあどんな人にでも「自慢の要素」は会話に入っているものだし、「卑屈の要素」よりはマシだとは思うけど、問題はバランスだ。
特に自分は優位な立場なんかにいる時は危ない。
そもそも先輩が後輩に(漫画家がアシスタントや編集者に)何かを自慢して「すごいっすね」なんて言われている姿は、とにかくみっともない。
力関係で言わせているだけだから、完全に「裸の王様」だ。
後になってジワジワと「なんてみっともない自慢をしていたんだ・・」なんて気がつけばまだ良い方で、いい年していつまでも自慢ばかりしている人も多い。
先輩の自慢話にはうんざりしていたのに、自分が先輩になると同じ事をしている。
僕はそんな事に気づいてから、そんな「自慢」を制御するようにしたけれど、これがどうにも難しい。
そんなの当たり前だ。
他者からの「すごいね」は、自分の不安を減らして、気持ちを前向きにしてくれる「魔法」なのだ。
がんばって「結果」が出た時くらいは賞賛されたい。
いいことがあった時なんかも、それを共感して欲しくて周りが見えなくなりがちだ。
だからこそ「自慢される側」の気持ちを想像する事は、とにかく重要だ。
彼女ができなくて毎年寂しいクリスマスを耐えてる友人に「自分の恋人がいかに可愛いか」なんて自慢はしてはいけないのだ。
女の子の中には「同性の敵が多い人」ってのがいるけど、敵を作っている原因の多くが、この「相手の気持ちを考えないで自慢してる」行為にあると思う。
「彼がくれるプレゼントはいつもセンスがないのよ」なんて愚痴を、彼氏ができたことがない女友達にしている人がいる。
これは敵が増えても仕方ないだろう。「言葉の残酷さ」に気づいてないのだ。
どうにも面倒くさい話なんだけど、誰にだって「自慢衝動」はあると思う。
大好きだった有名人から電話がきたりした時なんかは、僕も抑えられなくなる。
仕方ないので、10年位前から僕は「ごめん、自慢させて!」と、先に謝ってから報告していた。
聞き役のアシスタントは、決まって島根出身で人あたりの良い「山田裕太」だった。
彼は些細なことで幸せを感じる才能があって、根に持たないタイプの人だ。
「くそー・・それにくらべて俺なんか・・・」みたいな回路にいかない人なのだ。
今は中国人の彼女と結婚して、その事を漫画で描いているので見て欲しい。
それはともかく、この話には続きがある。
僕は「そんな事ばっかり意識しているみっともなさ」にも気づくのだ。
慣れてくると大抵の人は、相手の自慢を聞いてあげた分だけ、自分の自慢を聞いてもらう「バランス感覚」を身につけるものなのだ。
妙齢の女性達が集まると「あなたそれ素敵ねえ~」と言ってから「見てこれ私のも素敵でしょ?」とかやっている。
少女の頃から「私が私が」とやって、何度か地獄を体験した女性達は、その辺の「自慢バランス」を掴んでいるわけだ。
要するに「素敵ね」をあげた分は「素敵ね」を言ってもらえる世界だ。
それにしても、人はどうしてそこまで「自分」にこだわるのだろう。
たまたま生まれて、自分が付けたわけでもない「名前」をなぜ「すごいもの」にして「忘れないで欲しい」なんて思うのだろう。
「名を上げる」とか「名を残す」とか「有名になる」ってのは、そんなに大事な事なのだろうか?
「自分のしてきた事」を認めて欲しい、ってのはわかる。
でも、自分のしてきた「行為」が本当に誰かを幸せにしたのならば、言わなくても周りがその人を「認めたくなる法則」ってのもある。
何気なく食べたコロッケがとてつもなく美味しかったら「これを作った人は誰?」となる、あれだ。
人は何か「いいもの」を受け取った時は「お返し」がしたくなる生き物なのだ。
「自慢」は言ってみれば「お返し」の先払いを請求している様な状態で、頑張っているのに「お返し」が来ない時に、ついつい「いいからくれよ!」と言ってしまう行為なのだと思う。
この「お返し」というのは、目に見えない時期が案外長い。
命をかけて「世界一のコロッケ」を作っても、お客の声がすぐに届くわけではないし、1個80円のコロッケでは巨万の富は手に入らないし、ミシュランも星を持って来ない。
なのでついつい「俺のコロッケはすごいんだ!!」なんて叫びたくなるのだ。
それが本当に「ものすごくおいしいコロッケ」であれば、勝手に行列ができたり、取材が来たり、支店のオファーなんかが来る事もある。
それまでは、自分が自分に「大丈夫、お前のコロッケは最高だ!」とか、言うしかない。
向かいの「たい焼き屋」に「あんたの作るたい焼きは最高だな」なんて言ってもいい。
大抵は「いやいや、あんたのコロッケも最高だよ」なんて「お返し」がくるので、それを信じて、たいやき屋と一緒にのんびり頑張ればいいのだ。
今回のヤンサン美術展で感じたのは、そんな事だった。
ほぼ70人の参加者がいるので、会場には参加アーティストが沢山来ている。
様子を見ていると、作品を出しているみんなが、実に自然に「他の人の昨品」を誉めているのだ。
もちろん、それが100%本気で言ってるかどうかは、その人にしかわからないけど、彼らの昨品は普段は人の目に触れ難いものばかりなので、誉められたら嬉しいに決まっている。
そんな「コロッケ屋とたいやき屋」のみんなが作る「いい空気」が素晴らしい。
「認め合う」ってのはいい。「何か」を生むのだ。
それは「作品」だけじゃなくて「自信」と「やる気」と「充実感」が生まれる。
つきつめれば「自分」なんて、たかだか100年そこらの有効期限の小さな存在だ。
名前なんてのも、単なる記号にすぎない。
最終的には「自分」も「あいつ」も同じようなものなのだ。
どちらも「地球という生命体」の細胞の1つだ。
まずは「あいつのコロッケ」を認めていこう。
山田玲司
公式サイト:漫画家 山田玲司 公式サイト
Twitter:@yamadareiji
ファンサロン:GOLD PANTHERS
Facebookページ:@YamadaReijiOfficial
【質問はこちらへ!】
Gメール:yamadareiji6@gmail.com
タチワニ:http://ch.nicovideo.jp/yamadareiji/letter
平野建太
Written by
ナオキ
寝落ち 見落とし 記憶喪失