絶望に効くお薬処方箋 漫画家 山田玲司 公式サイト

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コラム 2017.05.26

【第11号】学校も地上波テレビはいらないなら、どうやって「成長」すればいいのか?

本当に学校というものは人間をダメにしてしまう。
そもそも国の生産を上げるための施設なのだから、そこに行けば「均質化した産業奴隷」になって、意味のない消費に意味のない生産をする「命令待ちのロボット」になるのは大昔から言われていたけど、ここにきてようやく学校が見放されようとしている。

 

理由は簡単だ。
行っても幸せになれないからだ。

 

同様にテレビという均質化した情報装置が限界にきている。
政府と産業界の指示で制御された情報ツールが役に立たないのも理由の1つだけど、「面白くない」というのが最大の原因だろう。

 

最近何人かの若者と飲んでいて、その頃流行ってきていた(らしい)エレキテル連合のギャグの話題になった。
テレビの関係者に言わせると「日本人なら今全員これ知ってますよ」というギャグらしいのだけど、そこにいた人全員がそのギャグを知らなかった。

 

別に特別な人間の集まりではなく、むしろ時代の先端で活躍している連中だったのだけど、テレビはすでに生活から「外されている」のだ。

 

それはいいのだけど、だとしたら若者は何で情報を得て、何を見て「考え方」を覚え「考えて」「成長」すればいいのか?

 

もうこれはネットだとしか思えない。
もちろんネットを外れた「コミュ」には期待したいのだけど、それにはまだ時間がかかりそうだ。

 

そうなると僕のやっているこの「課金制番組とメルマガ」の存在は大きいと思う。

 

これは大学であり、先輩からの助言であり、秘密の話でもある。
観る人が「この人に教わりたい」と思ったら、課金して教わる。
まさに大学のゼミだし、弟子入りだ。

僕は今週これに気が付いた。

こうなるともう「面白ければいい」というわけにはいかない。
「面白い」のは絶対条件だ。これに「役に立つ」「世の中の見方が変わる」
「人生が良い方に変わっていく」ことを目的にして放送しなければ課金する資格はないのだ。

 

そんなわけで、このメルマガも「新書化できるレベルの情報」も加えていこうと進めていきます。

 

生放送ではあの「絶望に効くクスリ」を復活させていきます。

 

もちろん今まで通り「わかりやすく」「楽しく」やるので今後もよろしくお願いします。
大学に行く変わりに山田玲司を見ていた、という人がいる可能性がある。
ふざけながら、本気で伝えます。

 

では今週は前回の「年上の義務」についての2回目です。

 

 

「ご機嫌な人」に集まってしまうものとは何か?

 

ご機嫌でいるのは難しい。
人間なら嫌な事は常に起こるし、体調が悪い時だってある。
そんなにいつも機嫌良くしてはいられない。そんなの当たり前だと思う。

 

ところが、自分の上司や学校の先生が「不機嫌」に現れると本当に迷惑な気分になる。
何しろその不機嫌の原因は(ほぼ)自分ではないからだ。
こうなると不機嫌な年上の人は「自分の問題を自分で解決できないまま」年下の前に現れていることになる。
「年上のくせに」
と、年下の人間は思うだろう。自分よりも長く生きているくせに、自分のメンタルすらコントロールできないで、その不満をまだ未熟な者たちにぶち巻いているのだからみっともない。
こんな感じだろう。

 

実は男女の恋愛でも同じ事が言える。「ご機嫌」な人は異性にモテる。「不機嫌」な人はモテない。
これは「寛容さ」のレベル判断でもある。
すぐ切れるか?平然としていられるか?
人としての器の問題だ。

 

なぜ年上は「ご機嫌」であるべきかというと、ご機嫌な人とは「寛容で器が大きい人」なので、言いにくい話やどうでもいい話をしやすいのだ。
「これを言ったら切れるな」とか「不機嫌で何言っても怒られそう」と思われていたら、誰も話をして来なくなる。
必然的に情報弱者となり、その人は時代に取り残されていく。
そういう人間は仕事で決定権を持っていたとすると、組織自体の損失は大きい。
部下の心情や人間関係も理解できないだけでなく、情報弱者に競争力はないので仕事の結果も出ない事になる。
時代に取り残されているので、過去の成功体験だけで仕事を進めようとする。そしてそれは通用しないので更に不機嫌になり人は離れていく、という悪循環が待っているのだ。

 

年上の人間が何も権限を持っていないなら構わないが、仕事場の舵を握っているとなると「不機嫌」は死活問題なのだ。「ご機嫌であること」は年上の義務と言っていいだろう。

 

これは職場以外でも同じで、不機嫌な親に子供は本当の事は言わない。不機嫌な先生に子供は本当の事は言わない。すると問題は水面下で巨大化、凶悪化して行き、表面化した時には手遅れになっている。
子供のイジメ、自殺などが大人の知らない所で進んで行く原因の1つは、器の小さい年上の人間の「不機嫌」のせいなのだ。

 

「だったら俺たち年上を無視しないで年下の人間が積極的に言ってくればいいだろう」
と年上の人間は言うかもしれない。
かつての日本には「察する」という文化があった。
上の者が不機嫌に黙っていてもその下の者は上のものの沈黙の意味を察して動く事が美徳とされてた時代があった。

 

しかしこの国でははるか昔に「不機嫌な大人」に対してドアを閉じる、という若者が現れ、それは絶望的に世代を分離してしまっているのだ。

 

それは1990年代の中頃に決定的なものになったのだ。

 

大人を切り捨てた90年代
かつてこの国には「わかりやすい不良」という人たちがいた。
特に80年代の「不良」はわかりやすくて、自分達を「大人」や「つまらない社会人」とは違う「反抗する子供」と主張して踏ん張っていた。

 

この時代のドラマでは大人と子供、不良と真面目と構造がシンプルだった。
おそらくはその前の世代が「体制」と「反体制」に分かれていた構造だったところから、局地的なもの(ローカル化した)に変わったのだろう。政治や社会に楯突くの事の無力感から「身近な大人」に楯突くようになっていったわけだ。その代表が暴走族で、彼らは社会を変えようなどとは思っていなかった。
ただ「ムカつくから自由にやりたいんだ」という主張のみで存在をアピールしていたわけだ。

 

ところが90年代になると「不良」というのがわかりにくくなっていく。
家や学校では真面目ないい子が、裏では凶悪犯罪を犯していくようになっていった。
この当時も「ギャング」や「チーマー」など暴走族文化の延長は見られるのだけど、数は少なく、どうしても1部の人種感があった。
その半面「いい子の顔」をした悪魔の心を持つ子供は水面下で数を増やしていく。
そして97年のエヴァンゲリオンの登場で、その悪魔子供はマジョリティに変わった。

 

彼らは昔の「不良」のように大人とやり合うことはしない。
ただ「スルー」するだけだ。つまり大人を相手にしていないのだ。

 

エヴァンゲリオンでは大人がほとんど相手にされていない。この作品以降ほとんどのアニメから「大人」が消えていく。

 

つまり子供は大人を「いないもの」として切り捨てたわけだ。
そんな子供を理解しようと大人達は必死になったが、あらゆる事が空回りして、子供が唯一心を許す「大人」はガンダムやナウシカやエヴァンゲリオンの監督やアイドルのプロデューサー、アイドルや役者やミュージシャンや芸人など自分の好みの世界にいる大人と、スティーブ・ジョブズやホリエモンなどの「新世代のカリスマ」だけになった。

 

大人になってしまった「年上」の人間はこの事実を認識していないとすぐに「いないもの」としてスルーされてしまう。
ダダ流しの地上波テレビの時代が終わり、自分の好みのみで選択できるネットで彼らは生きている。
気に入らない情報や人間は「ブロック」すれば、自分好みの快適空間は維持される。

 

こうなるともう「年上の特権」が発動できる場は学校や職場の(金のために仕方なく存在している)縦関係のみになっていく。
年下の人間はここで「いかにつまらない年上との接触を無くせるか」ということに力を尽くす。
ブロックをしながらブロックをしてないフリをするのだ。

 

そういう若者が「先輩ありがとうございます」とか言っていても、「早く帰れよ」と思っているのだ。特に年上である事にあぐらをかいて「不機嫌」を投げ散らかしている人間は実際に会っていても「ブロック」されている
それが現代だ。
『年上の義務』
メルマガ発行日 2014/12/8

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