コラム 2018.04.13

【第145号】「意識高い系」が嫌われる理由

山田玲司のヤングサンデー 第145号 2017/7/24
「意識高い系」が嫌われる理由

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テレビのコメンテーターの発言がつまらないのは、彼らが「まっとうな意見」を言っているからでしょう。
大抵の「まっとうな意見」は、綺麗事です。
政党のポスターなんかに描かれている「子供も老人も若者もみんな笑顔」みたいな「イメージ」も「それ」でしょう。
そんな世界は虚像です。
今でこそ「報道の虚構」にはみんなが気づいていますけど、30年くらい前の日本では、まだ「偽善」とは言い切れない「善意」みたいなものがありました。

「金八先生」や「熱中時代」や「スクールウォーズ」みたいなドラマには、前の世代が信じていた「正義」や「人情」があったのです。(帰ってきたウルトラマンとかね)
それらのドラマでは「貧しいものの味方であれ」や「弱っている人には手を差し伸べよう」などの「正義」が語られます。
ところが、現実の世界はそんなに甘くはなく、強い者達は容赦なく弱者を踏みつけて平気な顔をしていたりします。
同時期のドラマには、そういう社会の相克を描いた「ふぞろいの林檎たち」みたいなものもあるし、そういう偽善的な都会を捨てて生きる事を選択した「北の国から」みたいなドラマもあるのですが、当時の社会(テレビや学校)では「世の中は正しいことで回っている」みたいな、虚構を教えるのが支配的でした。
なので、そんな「自称、正しい社会」から逸脱した犯罪者や、結婚生活を続けられなかったタレントなんかを「異常者」として叩くのがマスコミの仕事みたいになっていたのです。
どうにもこうにも「人間」というものの理解が「浅い」世界です。
そもそも人生はコントロール出来ないもので、この世には善も悪もなく、全ては不条理で多層構造である、なんて事は何千年前から分かっていたことですからね。(そこは文学の仕事ではあるんですけどね)

そんな状況にイラついていた時に出会ったのが、「ツイン・ピークス」でした。
その世界では、一見「まともな人達」が、その実「信じられないほどイカれている」という事を、スタイリッシュに観せてくれるのです。
「そうだ!これだよリンチ!社会なんて虚構の皮に覆われた獣たちのカオスなんだよ!」
なんて。若き日の僕は熱狂したものです。

まだあの当時は「偽善」を暴くのが新鮮だった時代なのです。
ところがその後、95年の阪神大震災とオウムがあり、バブル崩壊でつかの間の宴は終わりました。

そして多くの人が「現実の不条理」に耐えられず「わかりやすい物語」に向かって行ったのです。

ツイン・ピークスの中で「異界につながるターミナル」として出て来るのが「ブラックロッジ」です。

そこから主人公は「人間の深層部分」に引き込まれて行きます。

その世界は残酷で無慈悲なカオスに満ちています。
僕はこの「ブラックロッジ」は、今で言う「ネット空間」ではないかと思うのです。

社会の表層は「テレビ、雑誌、世間」などになり、深層は「冷酷な本心」が渦巻く「ネット」になったわけです。

「産業廃棄物」やら「汚染水」やら「海外の脱農薬」なんかの話はニュースではスルーされ、「今年も夏祭りでは元気な子供たちが・・」とか「夏の湘南では今年も若者たちがハメを外して、近隣住民は迷惑を・・」なんて感じのチューニングをして放送されます。
とっくに壊れているこの国を、毎年「昔と同じ国」として演出しているのです。

とは言え現実は日増しに酷くなっていきます。

いつの時代も「そんな世の中を何とかしなければいけない」と、思って行動する人たちもいます。
悲しいのは、政党や世間、マスコミなどの「偽善」に腹を立てている人たちが、そんな「まっとうな人たち」に対して「あいつらも同じ偽善者だ」と、深い思索もなしに攻撃することでしょう。
「意識高い系」と言って、この数年攻撃されてきた人達の中には、いくらかの問題はあったかもしれないけれど、個々の主張は、人として「正しいこと」が多いように思うのです。
これはテレビのコメンテーターの言っている「まっとうな意見」とは、本質的に違う「正しさ」です。

なので「今の世間の雰囲気」とはズレがあって、それがさらに「子供じみてる」と感じさせてしまうのかもしれません。
とは言え、その「正しさ」は、これからこの世界で生きていく人達にとって大事なことだし、今この瞬間に生きているすべての人の幸福に無関係ではない話も多いのです。

何だか、漫画「デビルマン」で、人類の正義を信じていたのに、その人類に裏切られた不動明の絶望と重なる話ですね。

本当は腐りきってるこの国(世界)を、「そんなことはない、悪いのは少数の異常者です」と言いながら隠蔽する流れがあって。
そんな隠蔽にうんざりしている人達が「それでもなんとかしよう」と動き出した人達を叩く、という構造。

考えると、この問題。「隠蔽する権力者」を許すのに、「理想を持つ他人」は許さない(信じられない)という、なんとも悲しい日本人のメンタリティが浮かんでくる。
不条理に叩かれているような毎日を生きている人が、他人に寛容になんかなれるはずがない、という話なのかもしれない。
学校教育で過酷な比較競争を強いられた「後遺症」の問題もあるだろう。

学校で失った「優しい心」や「理想」を如何に取り戻すか?という話かもしれない。
まずは、人間は不可解で、「悪いこと」は「その人」だけの責任で起こるわけではない、という理解から始まるのだろう。
デビット・リンチは実は「愛の人」だと思う。
彼の作品は「人間なんて人間には理解できない」と言っている。
「本当に悪いやつなんかいるのか?」とも言っている。

「世界はわけがわからない」という哲学は「簡単に誰かを非難できない」という所に繋がるのだ。

~「彼」を許せないのは、まだ「彼」を知らないからだ~

なんてね。
夏がきたね。お大事にね。水分と深呼吸を忘れずにいきましょうね。
山田玲司

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