【第208号】泣いている人へ
泣いている人へ
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おことわり:このコラムは、ニコニコチャンネル「山田玲司のヤングサンデー」で配信されているメルマガを全文転載してお送りしています。転載期日が2018年4月下旬以降の号は、テキストのみを抜粋・転載しております。
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先週は「夜の手塚治虫」というイベントがありました。
その模様はヤンサンでも公開されるという事なので、この週は僕はイベントに集中して、放送は僕抜きのスピンオフ放送で、僕は仕事をしながらその放送を見てました。
自分の出ていないヤンサンを見るのは、いつもながら変な感じだ。
まるで自分が死んだあとの世界を見ている感じなのだ。
放送は「ヤンサンファミリーからのメールをレギュラーの3人が読むっていうだけのもの」なんだけど、とにかく愛に溢れてる。
何だか信じられないけど、とにかく嬉しい。
そんな放送に励まされて、数日後イベント会場である劇場へ向かった。
劇場が吉祥寺だとは聞いていたけど、行ってみて驚いた。
その劇場は、僕がかつてアシスタントに通っていたE先生の(旧)仕事場の隣だったのだ。
その昔。19歳の美大生だった僕は、毎週この場所に来ては、ほとんど寝ないで働いてた。
楽しい思い出も沢山あるので、今振り返って当時の話をする時は、大抵は「笑い話」になる。
僕もその時の出会いに感謝しているので、本当に行って良かった、なんて思っていた。
ところがです。
あの時と同じ道を歩いて、同じ建物の前に立ってみると、「思い出補正」が解けて「あの時のリアルな気持ち」が蘇ってきた。
とにかく僕は「絵」が下手だった。
ところがこの時の仕事場は、E先生もチーフアシスタントのF氏も、当時国内でトップクラスの「超絶絵師」だった。
今考えれば、当時から僕は「本質的な表現」にこだわっていて「上手い絵」を拒絶していたから当然だったのだけれど、それでも「使えないくせに美大生」と言われる立場はきつかった。
そもそも美大受験の頃から「絵の巧さなんか意味がない」と思っていたのに、美大受験では「それ」を求められ、我慢して自分を殺して「技術(上手い絵)」を習得したのに、漫画の世界でもまだ「それ」を求められるのだと思うと、心底嫌になった。
憧れの手塚治虫は「漫画はふてぶてしく描け」「漫画は自由でいいのだ」と言っているのに、なんなんだよこれは!!
なんて・・・暗澹たる思いで歩いていたのが、仕事場までの「この道」だったのだ。
考えてみれば、僕は「アシスタント」として呼ばれていて、別に「アーティスト」として呼ばれていたわけではないので、この悩みはかなりズレている。
とはいえ、当時の僕は「絵」が否定される事で「自分」の未来が否定された気分になっていたのだ。
仕事帰り「悔しい気持ち」をいっぱい抱えてこの道を歩いた。
夜のガードレールに座って途方に暮れた。
そんな「未来が何も見えない蒼い季節」がフラッシュバックしてきた。
そういえば最近ある芸人さん(オードリーの若林さん)の若手時代の話を何かで聞いた。
いくら頑張っても売れない時代。
当時の彼女と一緒に深夜の「ドン・キホーテ」をうろついてた若き日の若林氏。
お金がないのでアイスしか買えなくて、それを2人でドンキの店先で食べていた時。
彼は突然涙が止まらなくなったという。
彼女はそんな彼の背中を黙ってさすってくれてたらしい。
そんな話だったと思う。
もうこの話。死ぬほど胸にくる。
聞いているだけで、こっちまで泣けてしまう。
韓国映画の名作「サニー」では、そんな「泣いていた頃の自分」を「今の自分」が抱きしめてあげる、というシーンが出てくる。
僕は吉祥寺の「あの道」で「あの頃の自分」の肩をたたいてあげたくなった。
吉祥寺で泣いてる「理屈っぽくて心配性だった19歳の自分」に、
「お前は33年後にはここで、憧れの手塚治虫を語るイベントに出て、手塚るみ子さんと同じステージでしゃべってるぞ」
なんて言ってやりたい。
でもそんな事言って安心されても困る気もする。
いや、もしかしてこの思いは時空を超えて「あの頃の自分」を励ましているかもしれない、なんて、ちょっと思う。
もしかしたら、「90歳の僕」や「死んだあとの僕」が今の自分を励ましてくれているのかもしれない。
〜真剣だった人〜
色々思う事の多かった夜だったけど、今回共演した仲間の中で、きたがわ翔と喜国雅彦さんはその頃からの付き合いで、これもまた感慨深かった。
「真剣になるのはかっこ悪い」という風潮が大勢を占めていたバブルの頃、この2人は特別に「漫画に真剣」な人だった。
売れっ子だったきたがわは、会えば必ず「最近現れた漫画家の最新情報」と「昔の漫画の話」と「自分が描こうとしている漫画の話」を熱く語る人だった。
彼はよく「残りの人生で、あと何作の漫画を描けるか考えると焦るんだよ」と、いつも言っていた。
焦るのは、少しでも満足の行く作品を描き残したいからなのだ。
漫研の先輩の喜国雅彦さんは、僕が大学生のときにはすでにOBだった8年年上の人。
多摩美漫研創世記は、伝説のOBだらけの「レジェンド世代」で、彼はその中でも物凄い努力家だった。
「しりあがり寿さん」や、デザインの世界で伝説になる「祖父江慎さん」などが名を上げていく中、彼は長くデビューも連載もできないままアシスタント生活を続けていた。
喜国さんを知っている漫研の先輩たちはみんな「喜国さんは売れて欲しい」と言っていた。
大学の芸術祭オールナイトの夜、まだデビューが決まっていない喜国さんが静かに模擬店の片隅に座っていたのを覚えている。
吉祥寺のあの道で途方に暮れていた僕と同じような気分だったのだと思う。
喜国さんは、ずっと描いていた暗い青春漫画が認められず、開き直って描いた「悲しいギャグ漫画」が認められてデビューが決まる。
僕も喜国さんと同じタイミングでデビューして、2人同時に「ヤングサンデー」で連載を始めたのだ。
それから30年以上の時が経って、気がつけば僕らは「手塚治虫を語るステージ」の上にいた。
「真剣になる」とか「本気で頑張る」ことを馬鹿にしていた人達は気がつくといなくなってた。
山田玲司
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平野建太
Written by
ナオキ
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