【第157号】「とんねるず」という弱者
「とんねるず」という弱者
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おことわり:このコラムは、ニコニコチャンネル「山田玲司のヤングサンデー」で配信されているメルマガを全文転載してお送りしています。転載期日が2018年4月下旬以降の号は、テキストのみを抜粋・転載しております。
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その頃、暴れていたのは彼らだけじゃなく、高田純次や、鶴太郎や、鶴瓶なんかも暴れてはいたのだけど、とんねるずの暴れ方は1つ違っていた。
彼らは巨大なテレビカメラを引き倒し、破壊した。
定かではないが、それは数千万もするカメラだとか言われていた。
その時代、みんなが「とんねるずの番組」を観ていた。
僕もまた、そんな彼らが「退屈で保守的なお笑いの世界」で革命的な悪ふざけしているのを「新鮮な驚き」をもって観ていた。
とんねるずは、よく制作スタッフの個人名を口にした。
芸能事務所や、テレビ局内部の力関係をギリギリのラインまで暴露しているように見えた。
そして、彼らは無名の事務所から出てきた「その辺にいる元高校生」だった。
「祖師ケ谷大蔵」とか「成増」とか、東京の地元民にしか分からない事を平気でぶつけてくる感じも「地元の先輩」な感じだった。
そんな「どこにでもいる元体育会系の高卒ヤンキー」が、とんねるずだった。
逆に言えば、たいした肩書もなく、部活で大きな結果も出せなかった「社会的弱者」でもあったのだ。
そんな彼らが、テレビ局の東大卒を罵り、伝説の歌手「美空ひばり」と親交を深め、NHKの紅白に出て暴れているのは、当時の若者にとって「痛快」でしかなかったわけだ。
その部分は、良かったのだと思う。
「とんねるず」は、強者ではなく「強くなりたい者たち」だったのだと思う。
だからこそ、彼らは自分を卑下せず、社会的弱者を平気で叩いていたのだ。
彼らが、無邪気な中学生男子のノリで、見た目の変わった人達を笑い者にしたのは、自分達のように戦わない「弱者」は「価値がない」と思っていたのではないだろうか。
当時、日本中にいた「強くなりたい者達」は、そんな「とんねるず」に憧れ、自分を重ねた。
そして、そのノリについてこられない者たちを「弱者」として侮辱して迫害した。
自分が強いわけではないけれど、見た目の劣ったように見えるものを叩くと、強くなった気がしたのだろう。
ブルハの歌詩にある「弱い者達が夕暮れ、さらに弱いものを叩く」という状態だと思う。
放送で言ったように、このノリは「イノベーション」に乗り遅れたものたちを「バカ」と言い切る「ホリエモン的イメージ」(ホリエモン本人とは別)を信仰している人達にも見られる。
本当の意味でイノベート出来ている人はめったにいないので、そのほとんどが「イノベートに憧れるだけの者達」で、実は「弱者」でもある。
そして「弱い者」は怖がりだ。
僕の経験では「ヤンキー」には「小心者」が多い。
人を威嚇するのは、人が怖いからなのだ。
お笑いの歴史を見てると、その辺も見えてくる。
そもそもが「弱者の庶民」の立場から生まれた「落語」はもちろん。
戦後のドリフターズ、クレイジーキャッツ、から、ビートたけし、明石家さんま、などの人達も「弱者」を叩いた笑いなどしてはいない。
たけしにしても、相棒を「こいつは山形の田舎モンだから」と言いながら、最後は必ず「俺なんか北千住の貧乏なペンキ屋のきったねー息子だぞ」と、一番下に自分を持っていく。
明石家さんまが自分を語る時は決まって「最低男」と名乗っていた。
強い人間ほど、自分を卑下した笑いが生み出せるのだ。
とんねるずがもし「人の痛み」がわかる強さを持っていたら、彼らにはまた違った可能性があったとは思う。
本音を1つ言わせてもらうと、僕は自分を守るために弱い人を傷つける様な人間は大嫌いだ。
人にはそういう弱さがある事もわかるけど、そんな人間を擁護する気にはなれない。
偉そうにするなら、自分は強いと言うなら、人の気持ちを想像するべきだ。
マシな頭があるなら、自分がたまたま恵まれていただけの存在だとわかるだろう。
ところで。
「見えない自由が欲しくて、見えない銃を打ちまくる人」に、僕が「本当のこと」が言えるとするなら、
「他者の痛みがわかる人」は、「奴ら」よりも強い、ってことだろう。
山田玲司
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平野建太
Written by
ナオキ
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