コラム 2019.02.22

【第203号】「あのカフェ」を取り戻せ

山田玲司のヤングサンデー 第203号 2018/9/10

「あのカフェ」を取り戻せ

 

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おことわり:このコラムは、ニコニコチャンネル「山田玲司のヤングサンデー」で配信されているメルマガを全文転載してお送りしています。転載期日が2018年4月下旬以降の号は、テキストのみを抜粋・転載しております。

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「輪るピングドラム」があれほどまでに若い人達に支持されているのはなぜか?

 

僕が思う最大の要因は、このアニメが「いないことにされている人達」の存在に向き合ったからだと思う。

 

最後の方で、子供の頃のひまりが、潮干狩りで迷子になってしまう回想が入る。

 

ひまりを必死で探し出した2人の兄に彼女は言う「やっと見つけてもらえる子供になれたんだ」

と、彼女は大号泣する。

 

「私はここにいる」という叫びが届かない時代になって久しい。

 

いつの時代もクラスにいるのに「いない存在」にされている人が必ずいる。

ここ30年間の間にそれは特にひどくなった気がする。

取材先や人生相談で、僕は何度も「学校では誰ともしゃべらなかった」という言葉を聞いた。

 

90年代の受刑者が告発した「自分は透明な存在」という言葉が表す絶望。

「何者」にもなれず孤立していく不安。

 

そんな気持ちに向き合ってくれたのが「輪るピングドラム」だったのだ。

 

これは同じ年に放送された「まどか☆マギカ」も同じだった。

「ほむら」が自分を犠牲にして何度もまどかを救いに行くのは、ほむらが「透明な存在」になりそうな転校初日にまどかに「見つけてもらった」からというのが最大の理由なのだ。

 

この話は「クラスの問題」では終わらない。

多くのテロは「見つけてもらえなかった人達」「存在を無視された人達」の気持ちが発端になっているからだ。

 

もちろん社会構造は多分に複雑で、利害関係で起こるテロも当然あるけど、ここで言っているのは

 

「あいつら俺たちを無視しやがって・・全員ぶっ殺してやる」

 

という「気分」が生むテロ(暴力)の話だ。

 

そしてそれはしばしば「革命」という名で呼ばれる。

 

まあそれにしても、この「ピングドラム」

 

あまりに冠葉と晶馬が報われないのも事実。

 

「銀河鉄道の夜」のカンパネラ(冠葉)はザネリ(ひまり)を助けて死んでしまうので、ひまりを助けて死んでしまう冠葉はそれをなぞっているのだけれど、銀河鉄道では助かる「ジョバンニ」と思われた晶馬もまた犠牲になって死んでしまうのだ。

 

親の世代の罪を「原罪」とするなら、彼ら兄弟は実にキリスト的な自己犠牲で「迷える子羊」を救ったと言えるだろう。

 

ここまで主人公たちの幸せを願って観ていた視聴者の1部が「そんなのあんまりだ」と怒ったのもわかるし、自分自身が「見つけてもらえなかった」子供だった人達の中には「これしかないんだよな」と共感したのもわかる。

 

自己犠牲の押し付けは勘弁して欲しいけど、重要なのはピングドラムには「見つけてもらえなかった子どもたち」に、行動する「選択肢」が用意されていたことだ。

 

ほとんどの子供には、その「選択肢」すら与えられない。

学校で無視されたり、親に虐待されたりした時に「ひたすら耐える」しかなかった人達は沢山いるだろう。

 

ピングドラムという作品は、冠葉と晶馬が「自分の意思」で行動する。

自分たちで呪われた運命と戦い「大事な人」を救うという物語なのだ。

 

選択肢のないまま「いないこと」にされていく気持ちだった人には、それがどんな結末であっても「救い」だったと思う。

 

ところで。

 

放送後におっくんが面白いツイートをしていた。

彼は宮沢賢治の尊さが「あまりに尊いが故に受け付けられない」みたいに言っていた。

 

そんなのより、海外ドラマ「フレンズ」が良いって話を始める。

 

おっくんはこう言っている。

 

どうも人間ってのはそんな尊いもんじゃないんだと信じたいんだろうな。

フレンズのおもしろさはまさにそこにあって、愚かしさしかないからこそ逆光のように尊く感じたものそれは人が尊いんじゃなくて、彼らの営みの愚かしさ滑稽さが何よりも愛らしく、たまらなく愛おしいからこそ見えた光だった。

 

いつかカンバとショーマとヒマリとリンゴとマサコが阿佐ヶ谷の同じマンションに集まって恋して仕事して毎日同じ喫茶店でコーヒー飲んでどーでもいいこと話して笑う物語、待ってます。

 

〈引用ここまで〉

 

ピンドラの話してる時にいきなり「フレンズ」ぶち込んでくるところが彼らしい。

でもこの話、実は僕も共感する部分がある。

 

おっくんはこの物語にメタ視線を持ち込まず、主人公たちの幸せを本気で願って観てたのだろう。

 

僕だってもちろん冠葉たちの普通の(フレンズ的な)幸せを願うし、

何よりイクニ監督自身が「それ」を強く望んでいたと思う。

 

ではなぜそうしなかったのか?

 

おそらくそうしてしまうと、ピンドラはただの「ガス抜きのファンタジー」で終わってしまい、現実に「探してもらえない人達」はそのままになってしまうとイクニは考えたのではないかと思う。

 

確かにピンドラはメタ視線が強く、作者の言葉が主人公達の物語を超えてしまっている。

 

そんなコンテンツのバランスを崩してもイクニは「現実に透明な存在にされた子供達」を救おうとしたのだと思う。

 

見つけてもらえない人達を見つけて、フレンズの「あのカフェ」に連れて行く。

 

それができないのが「現代」で、どうしたらそれができるのか?

子供たちの犠牲を避けるために何ができるのか?

 

それを大人に問うているのが「ピンドラのもう1つの顔」なのだ。

 

フレンズとSex and the Cityが放送されていたのは90年代。

あの9.11の前だった。

番組の関係者は「もう、ああいう番組は作れない時代に入ってしまった」みたいに言っていた。

 

沢山の過去の失敗で人間関係がバラバラになった現代で、僕らが目指すのはまさにフレンズの「あのカフェ」だろう。

 

そのためには今日も「子供ブロイラー」に連れて行かれる存在を「見つけて」いなければならない。

 

イクニはそう言っていたのだ。

山田玲司

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企画編集:山田玲司
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