コラム 2018.12.08

【第192号】自分の中にいる「誰か」を見えるようにする(寺山修司と山田玲司)

山田玲司のヤングサンデー 第192号 2018/6/25

自分の中にいる「誰か」を見えるようにする(寺山修司と山田玲司)

 

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おことわり:このコラムは、ニコニコチャンネル「山田玲司のヤングサンデー」で配信されているメルマガを全文転載してお送りしています。転載期日が2018年4月下旬以降の号は、テキストのみを抜粋・転載しております。

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人は1人でいる時は、ほとんどの場合「自分」と話している。

 

中には「1日のほとんどを何も考えないで生きています」という強者もいるかもしれないけれど、人間てのは誰かの話を聞いている時でさえ「自分」と話している生き物だと思う。

 

それは「自分A」と「自分B」の対話である場合もあるし、「あの時の自分」とか「あの時の風景」

「あの時の後悔」などの「自分アーカイブ」と対話している事もある。

 

「何であいつばっかりいい思いしてんだろう、自分はこんなに頑張ってるのに・・」

なんていう「問い」にも、答えているのはやはり「自分」だ。

1人でいるのに疲れるのはこういう状態ばかりが続いてしまう時だ。

 

そのうちに沢山の「自分」が溢れて収集つかなくなってきて、何やら「ブツブツ」言い出すヤバい感じになるので、そうなる前に「1人もほどほど」にして、誰かとバカ話でもした方がいい。

 

そんな僕も、心の中の「大量の自分」がうるさくて仕方ない日が多い。

 

性格的に「考えないで生きる」のは無理なので、徹底的に自分会議になる。それはもう延々と続く。

僕が待ち合わせの場所に1人で行くと、時々「大丈夫ですか?」「居ますか?」みたいに言われる。

 

それは直前まで「自分会議」が白熱していて、意識が「向こう」に行ってしまってるからなのだ。

その究極が「物語を生み出す」という自分会議で、漫画のネームを作っている時はもはや「こっち」にはいないのだ。

(その状態でヤンサンの本番になってしまって事故が起きたのはご存知の通りです)

 

僕の「自分会議」の議題は、難しいものばかりではない。

 

今日の朝だと

「人はなぜサッカーに夢中になるのか?」

「そんな中でサッカーを頑なに拒絶する人がいるのはなぜか?」

「恐ろしく人口の少ない国がサッカー強豪国になれたのはなぜか?」

「カエルが鳴いていると嬉しいのはなぜか?」

「サッカーの消えた世界とカエルの消えた世界では、どちらが先に滅びるか?」

みたいな事を考えていた。

 

その都度浮かんだ疑問に対して徹底的に考えるので、その時点での「暫定的な答え」は持っている。

なので「アウトプット」はしやすい。

 

このメルマガもヤンサンの放送も、毎週やっていてネタが付きないのは「湧いてくる疑問」と「その時点の答え」が常にあるからなのだ。

 

【寺山修司の自分劇場】

ヤンサンファミリーの縁で、舞台を観てきた。

寺山修司さんの天井桟敷という伝説の劇団の意志を継ぐ「演劇実験室、万有引力」の舞台だ。

 

音楽、演出は「ウテナの曲」でお馴染みのJAシーザーさんだ。

演目は寺山修司の「赤糸で縫いとじられた物語」

 

寺山作品の舞台を観るのは久しぶり。

 

白塗りの演者が「天井桟敷マナー」でお馴染みの演技をしていくのだけど、演出は観客を突き放さず、思った以上にわかりやすい。

 

色々気づく事も多かったのだけど、特に思ったのが「少女の造形」だった。

 

舞台に立つ赤い服の女の子は「おかっぱ」で「パッツンの前髪」で「アイメイクは濃く」上目使いでこっちを見ている。

 

赤い服はドレスのようでもあり、普段着にも見えるけれど、その服には沢山の「てぶくろ」が縫い付けられていて、ちぎれたダンボールの1部も貼り付けられている。

 

とても懐かしい60年代のアングラマナーだ。

このイメージは様々なコンテンツの中で定番化していて、古くは「楳図かずお作品」「トイレの花子さん」なんかもそうだろうし、最近でも「ペルソナ5」の中でもそんなイメージを見た。

 

「ゴスロリ」というジャンルの系譜は、このイメージが原型の1つとなっているのは明らかだろう。

 

「かわいい私」は、同時に「おぞましい私」であり、「かわいい服」は「普通ではない服」だ。

少女は世間から強要される「女を演じること」を、受け入れたように見せつつ、同時に強烈にそれを拒んでいる。

 

この少女は、多くの女の人の中にいる「自分」の1つだと思う。

「こうありたい」「こうしろと言わないで欲しい」「愛されたい」「みんな大嫌い」みたいな、複雑で、単純に言語化できない「自分」が心の中にいるのだと思う。

 

寺山修司作品の舞台は、そんな「言語化できないものたち」「心の中の自分たち」が乱舞するサーカスだ。

 

登場人物はみな「自分」であり、バラバラになったり対立したり消えたりする。

 

確かに心の中ってのはいつもこんな感じだ。

 

なんか上手く言えないけど、確実に存在する「モヤモヤ」

 

それを「目に見える形」にするのがアートの仕事なのかもしれない。

 

寺山修司の舞台はそんな「モヤモヤ」を「生身の人間」が演じる事で、圧倒的な表現として観客に迫ってくる。

 

「モヤモヤ」を「モヤモヤ」のまま消したりしないで「こんな感じだよね」と肉体と音楽と美術で表現するのだ。

 

観る方が「それ」に共感するのは誰の心の中にも「ああいう人たち」がいるからだ。

 

それにしてもまた「やる気」が出てきた。つくずくアートは時空を超えて人を支えてくれるものだ。

 

ちなみにこの舞台。

まどか☆マギカの戦闘シーン(犬カレーさんの)に中にずーっといる感じでした。

 

天井桟敷は「まどマギ」にもなっていたんですね。

 

山田玲司

 

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企画編集:山田玲司
平野建太
発  行:合同会社Tetragon
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