【第198号】「オメラスから歩み去る人々」
「オメラスから歩み去る人々」
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おことわり:このコラムは、ニコニコチャンネル「山田玲司のヤングサンデー」で配信されているメルマガを全文転載してお送りしています。転載期日が2018年4月下旬以降の号は、テキストのみを抜粋・転載しております。
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地球で生きている 生命体
それ・僕たち・人間
というわけで、カネコアヤノの銀河に乗ってという歌を聞きながらこれを書いている。
先週の放送では、江守正多博士をお招きして、ポケモンと環境問題についての話しをした。
幅広い世代が知っているポケモンというコンテンツと、恐らく多くの人があまり時間を割いて自分で積極的に調べたり行動したりする機会がない環境問題の本当の所を繋げて話す場を設けよう、しかもご機嫌にという試みだ。
毎度、この幅こそがヤンサンの「意味」だと思うわけだが、先週のメルマガでもお伝えした通り、どのコンテンツも今が詰まっている「思想のバトルフィールド」なわけで、何か社会ののっぴきならない問題に繋がっていないわけがない。
コンテンツじゃなくても、考えようと思えば、スーパーに並ぶ大根だって、たまたま降りた駅構内の工事だって世界の問題と繋がっている。
何に接しても世界の何かの問題につながってしまっている。
それは恐ろしいことでもあるが、考えることが出来さえすれば、問題だけではなく「自分へのヒント」も目の前にごろごろと転がっている筈なので気を楽にして過ごしたい。
(考えることが行き過ぎると、止められなくて、毎週、ある種の症状を皆に披露することになってしまうのだが。)
100年後にももしまだ教科書というシステムがあって、その中の2行くらいで終わる文章にしか我々が居ないとしても、歴史の最前線にいるのは今を生きている僕たちだ。だからいろんなことを考えて豊かに生きていきたいと思っている。何かを自分で考えてそこから何かを見つけることは人を豊かにするし何より退屈だけはしないで済む。
むかし、とある作品を書くか書かまいか悩んでいた際、そこまでのプロットを友人の音楽家に見せて相談したことがあった。
「この物語を今発表する根拠がない。この物語は必要なのか?いろんな問題を把握もできず、それに対しての答えも明確に出せないまま垂れ流してもいいものか」なんて、くそまじめに考えすぎていたのだ。今思うとどこか偉そうでもある。
が、その時の僕は真剣に「その時にしか描けない、『今』必要な物語をきちんと自分の中で答えをもった上で書くこと」だけが正解だと思っていた。
その音楽家は僕の言葉を受けてこう言った「生きていて、問題の意識を持っていて、作品の節々にそれが表れていることは伝わる。それを書いたあなたの身体に現代が詰まっている。何かを言葉で定義したり規定したり、答えを出したりするだけじゃなくて、言葉にならない部分を抱えてそれを反映させた作品にすること、この作品を今出す『意味』はそれではないか」と言った。
そのときの友人の顔と目に妙に何かを感じた僕は、その作品を描き、結果、とても満足するものになった。
たいていの物事に答えなんてない。何かを決めてしまうのは怖いことでもある。(決めない怖さもあるけれど)だから、何事も、今の「暫定的な最良」を更新していくしかないのだ。
答えがなくても何をどう悩んでいるのか、何を問題意識として持っているのか、それを明らかにすることだって、その日の「暫定的な最良」だったりする。
とにかく僕はヤンサンをやっていて、玲司さんの横で話を聞いていて、評価の定まったもっと過去のコンテンツから、温故知新していくんじゃなくて、今を生きる人間が今のコンテンツから、今に役立つとてもたくさんのことを読み解く力にただただ脱帽するばかりなのです。
温今知新(おんこんちしん)とでもいいますか。今をたずねて新しきを知る。もちろん、その今には古きことからくる流れが必ず乗っかっているのですけど。
あっ。どうも。皆様、宜しくお願いします。
今回は久世が描いております。ということで、今回は、
言葉そのものが大好きな男の話しに少しお付き合いください。
今日は「意味」について描きます。「意味」ってなんだろうか。このことを僕はよく考えます。「意味」を感じる目を持つと、世界がちょっと広がっていきます。
僕が考える暫定的に最良な「意味」の「答え」。伝わる部分あるといいな。
長くなるけどなるべく手短に。
ここでいう「意味」とは単語の意味ではありません。
人がその行動を起こした理由でもありません。
もう少し分かりにくい意味での「意味」ですw
意味について話すには、まず言葉について少し話をしなければなりません。
ニンゲンは、物事を考えるとき、特殊な人を除き、言語で思考するからです。
言葉で伝えられて、その伝えらえた言葉が持っている意味のことを「意味」だと思ってしまいます。
これが「意味を感じる目」を養う際の最初のとても大きな落とし穴です。
何故なら「意味」は、言葉の外にあるからです。
その視線だってあのときのため息だって今の予感だって、言葉では規定できない意味がある。
言葉は一つ一つが論理的な構造物です。
それぞれの言葉に出来ることと出来ないことの範囲が決まっています。
その組み合わせで、無数にある世界の中の何か特定のことや、
自分の感じたことのある程度を頭の外へ出すのにとても有効な道具であることは確かです。
しかし、僕が言う「意味」は言葉の外側にしかありません。
たとえ言葉を使って書かれていても言葉では説明できないものが「意味」です。
言葉で意味を受け取って、言葉で考えて、言葉で決定して意味があると判断したことを、行動することが多いのに、言葉の外にあるのが僕のいう「意味」なのです。
今僕の言っていることを先回りして「それってこういう意味でしょ?」とか「それはこういうことだよね」と言葉にしてみることはいくらでもできるんですが、それをやってしまうと「意味」の本質を失いかねない。だったらそもそもこれを書いていることだって意味のないことなのかもしれませんが、言葉で言葉の外側を書くことを諦めていない僕です。
普段意識できない死角の部分に僕のいう「意味の領域」があります。
意識しようとしても意識しづらくよく見えない部分に。
言葉は道具です。人に思いを伝えたり、事実を伝えたりするときにとても便利な道具です。
でも言葉は「ただの道具」なのです。「思いそのもの」でもないし、「事実そのもの」でもありません。
写真を見てください。
例えば、言葉は、このように、実際に起こった心の動きを編集して、相手に伝えています。
便利な道具ですが、万能ではない言葉は「そのもの」を表せず、近似値を取ります。
そして、その言葉にしたときに失われたものが「意味」です。
物事の範囲を言葉が規定しまった外側が「意味」の世界です。
恋人との喧嘩なんかで、言葉を重ねれば重ねるほど、最初の気持ちとずれていってしまったり、言葉の上だけで仲直りして結局モヤモヤが全く晴れていないなんてことがあるのは、言葉で規定された外側にある「言葉に出来ない部分での二人の問題」を話さないといけないのに「言葉の内側にある言葉の意味だけにとらわれてしまっている」からずれていってしまうのだと思います。
「言葉にしている部分」から「言葉に出来ない部分」をちゃんと受け取らないといけない。表面上では言葉に出来る部分で話しているけど、それを通して同時に言葉に出来ない部分をきちんと議論してないといけない。
言葉が発達して様々なことが規定され、人類の伝達能力が上がったから救われたもの、言葉で規定しまったから見えなくなって起こった争いとどちらが多いのか、それを調べることが出来たら、なかなか興味深いと思います。
意味というのは辞書で引けば出てくるものじゃない。
感じたこと、心の動きしか意味ではないんじゃないかな?そう思うこともあります。
ちなみにこの写真は僕が「綺麗」以外に「意味」を感じた風景です。まだ発表はしてませんが一つの作品・詩の一部になりました。心の動きを言葉にしたのです。
詩だって、その言葉が並んだ時の単語の意味の総和を伝えたいんじゃなくて、
「その言葉をその配置で並べたときに心が動くこととその心の動き」を伝えたいんです。
そのときに並んでいる言葉がどう人の心に作用するか。それが詩で発生する「意味」です。心の動きが単語の意味の総和と関係のないところで起こることが「意味」なのです。
例えば
「遠い遠い」
コーヒーを淹れる/すべて青い/おはよう
という詩があったとして
この言葉から「小学校3年の夏休み、入院してた病院の隣のベッドで急にだらりと落ちた手」や「サハラ砂漠と冷えピタ」とか、詩に出てこない風景が見えて何かそれに心が動いたらそのことこそ「意味」なのです。
何がいいたいかというと、言葉は全く信用できないということです。
一応前提として共通理解として単語の「意味」は用意されていますが、そんなものは文脈によって「あなたが憎い」という言葉だって「愛してる」という意味になるくらい自由なものです。
「みじめさ」という言葉で語られるべき問題を「慎ましさ」という言葉で語ったり、「邪悪」という言葉で語られるべき問題を「倫理」という言葉で語ったり、「愛」という言葉で語られるべき問題が「誠実さ」という言葉にいつの間にかすり替わって論じられていたり。
言葉にとらわれるともう、勘違いばっかりしてよくわからないことになってしまいます。
そこで、「意味」です。意味の領域に足を踏み入れれば、勘違いすることが少なくなって、大事なことを見誤ることが少なくなると個人的には思います。
意味とは心の動き。
心がどう動いたかを言語化せずにその軌跡を体感すること。
その時の心の動きを「身体」で覚えておくもしくは留めておくこと。
これが大事だと思います。
頭ではなく身体で覚えておくというのが大事なんですが、身体と頭・思考のバランスや関係まで書いてしまうともう果てしない量になるのでやめておきます。
簡単に言うと心の動きを整理せず、言葉にもせず、未分化なまま受け止めて身体に心の動きをなるべく覚えさせておく。
火が怖い、月は優しい、とかそれくらいの実感を持って心の動きを身体に留めておくって感じです。
「オメラスから歩み去る人々」という短編小説をご存知でしょうか?
ゲド戦記でおなじみの、アーシュラ・K・ル・グウィンの短編です。
ポケモンと環境の話を聞きながら僕はこの話を思い出していました。
「意味」についての観点でもよく描かれた作品だと思います。
10ページちょっとかな?これを紹介して今回はおしまいです。
※以下ネタバレなので、気になる方は読まないでね※
オメラスはとても平和で豊かで争いのない理想の国です。
戦争も差別も飢えも考えられるネガティブな要素は一つもありません。
でも、この国には一つだけ秘密があります。
この国の地下では「ある子供」が一人鎖でつながれて閉じ込められているということ。
理屈はわからないが、その子供が地下につながれているおかげで、地上の理想の繁栄があるということ。
オメラスに暮らす人々は、一定以上の年齢になると一度その子に会わされます。
そして、この国が平和で豊かで争いがないのは「この子がつながれているからだ」という説明を受けます。
優しいオメラスの人々はその事実を知った当初は悩みます。
あの子にだけ何かを押し付けてもいいものか。助けなくていいのか。
でも、助けるとオメラスの発展と幸福と平和は終わります。あらゆる災厄がやってきます。
理屈はわからないけど、そういうことになっているのです。だからこの子は繋がれたままなのです。
ほとんどの人は苦悩した後、これはどうにもならないことなんだと。
そして、この国の秘密を受け入れ、一層、この国の平和の維持のために、日々の暮らしを秘密を知る前より大事にします。
でも、そのことを知らされたあとすぐに、もしくは知らされて何年もたってから、オメラスから立ち去る人というのがたまに出るそうです。
オメラスの周りは荒野です。何もありません。その人たちがどこに向かうのか、また、どこに向かうことが可能なのかわかりません。
ただ、オメラスから立ち去る人々はみな同じ顔をして立ち去っていくそうです。
確かな足取りで立ち去っていくそうです。
私は、江守さんの話を聞きながらこの話を思い出しました。
僕は色んな事を知っても立ち去るのだろうか。それともとどまるのだろうか。
こないだの放送で、言葉に出来ないどういう心の動きがあったのか身体で忘れないでおこう。
2018年8月5日 久世孝臣
※以下、久世の活動告知※読み飛ばし可※
8月公演が2つあります。
8月9日(木)は「謎夜」という音楽と朗読のライブ
予約はこちら。
http://www.cinecafesoto.com/article/460484164.html
もう一つ8月24(金),25(土)で「僕とパンツとトンプソン」
とあるダンサーと詩人の僕の二人芝居です。
連動して面白い企画もやってまうす。
https://motion-gallery.net/projects/mepants-and-thompson
楽しんでいただけますように。
予約はこちら。
https://ssl.form-mailer.jp/fms/b63bc72e386189
良かったら覗いてください。そして、現地に見に来て下さい。
とても面白い時間を流しますのでよろしくお願いいたします。
山田玲司
公式サイト:漫画家 山田玲司 公式サイト
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平野建太
Written by
ナオキ
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